オッペンハイマー
ようやく『オッペンハイマー』を観た。
なんせ長い映画だから、それなりに時間が空かないと観れなかったし、原爆が題材になっている映画なだけに、やはり一日本人としては観るのに気合も必要だった。
映画自体は、同じ戦争を描いたアメリカ映画でも『パールハーバー』のような徹底したエンタメ表現ではなく、戦争というものを嫌悪する、クリストファー・ノーランの姿勢も作家性も強く感じられる作品であったし、3時間の長丁場が全く気にならなかった、よい作品であった。
(これなら、洋画メジャー系が配給しても良かったのでは?配給会社がビターズ・エンドだったのはびっくりした)
しかし…。
確かに、広島と長崎の「キノコ雲」の映像表現はなかった。そこには、日本人への配慮もあったような気がする。
ただ、原爆実験のシーンを観て感じたのだが、やはり、ああいう大きな「火」を見て、科学者や米軍人が快哉を叫ぶ姿に、実際に「被」る側に立ってものを考えることの難しさ、そして大切さを強く感じてしまった。
私はタバコを吸わないし、火に対しては恐怖を感じるのだが、例えば放火犯は、火をつけることが目的ではなく「燃える」ものを見ることに快感を覚えるのだという。
それほど「火」というのは「畏怖」すべきものだし、あれほどの大きな「火」力には、興奮を覚える何かがあるのだろう。
しかし、それを「被」った時に初めて「火」という物の怖さを実感することが出来、逆に言えば、核というものの恐ろしさを理解し語れるのは、やはり日本人以外にはいないという事実に、目を背けてはならないのだとも強く感じた。
我々は常にそこを意識しながら行動し、ものを言わなければならないのだ。
(しかし、戦中世代はどんどん亡くなり、実感を持たない戦後世代が多くなっているのもまた事実で、邦画界で見ても、第二次世界大戦に対する映画表現の「軽さ」は、数十年前とは比にならないような感じがしている)
話変わるが、ロバート・ダウニー・Jr.が演じるルイス・ストローズが野心家なだけでなく、嫌な奴で…。
アカデミー賞で見せた「アジア人蔑視」の姿勢そのままのような役柄であったのもなんとも興味深かった。
次はもう少し、軽い「エンタメ作品」を観ることにしよう。
では。