『屋根裏のラジャー』

この作品の中で出てくる重要なワード“イマジナリー”。
要は「想像(空想上)の友達」を指すのだが、我々、映画製作に携わる人間は、この言葉を聞くと、すぐ“イマジナリー・ライン”が頭に浮かぶ。
まあ、ざくっと言うと、登場人物A、Bが会話する時に発生する「AとBを結ぶ想定線」のことだが、カメラが「この線を越えて」カットバックすると、なんとなく位置関係が気持ち悪くなったりするのだ。
(まあ、片方の肩などをナメたりすれば、イマジナリー・ラインを越えても、それほど気にならなかったりもするのだが)
これはちょっと脱線した話ではあるのだが、実はこの作品を観て、私は「現実とファンタジーの(境界)線」について、考えてしまった。

この作品の百瀬義行監督はスタジオジブリ出身であり、アニメーションの世界に明るくない私でも、その映像美においてスタジオジブリの影響は色濃く感じとることが出来た。
ただ、現実(リアル)とファンタジーとの境界線というか距離感というか、その辺がジブリの宮崎駿監督とは、大きく異なるように感じてしまうのだ。

原作はイギリスの児童文学『ぼくが消えないうちに』。当然、登場人物の名前は外国人のものだし、見た目も、白人の子が多く登場する。正直、それは構わないのだが…。

ただ、それなら『ハリーポッター』のような、ファンタジー洋画の日本吹き替え版をアニメで再現するくらいでいいと思うのだが…。
どうもこの映画は、キャラクター(カバの“小雪ちゃん”や、“骨っこガリガリ”という名前やら、Mr.バンティングが連れている女の子の『呪怨』的見た目など)や日常会話の中で、妙に日本的な(日本人的な)要素が多く含まれており、それが現実(リアル)とファンタジーの境界線を曖昧にしてしまい、視聴者のこの映画に対する見方を困惑させてしまう。
その結果として、映画との距離感がつかめず興醒めしてしまうのだ。

もちろんこれは私の見方であって、万人がそういう感じ方をするかどうかはわからない。しかし、明らかにファンタジーとして乗り切れていなかったと思う。
逆説的な言い方になってしまうが、私はこの映画を通して、ファンタジーアニメーションの制作者としての宮崎駿監督の偉大さを、改めて感じてしまった。

しかし、この映画の映像はすごく綺麗だったし、普段はこの手の映画を観ない私を映画館に誘ったのは、予告編の飛遊シーンの素晴らしさであった。
その意味でも、この映画は十分に見る価値はあったと思っていることだけは付け加えておく。

前回、ミュージカル映画である、ディズニー『ウィッシュ』についてブログを書いたが、次はまたミュージカル映画『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』について書こうと思っている。
では。