映画『でっちあげ 〜殺人教師と呼ばれた男』を観た

全然関係ない話から入ると。
綾野剛と亀梨和也、似てる…。
最初、区別がつかなかった(笑)。

<ストーリー>
2003年。
小学校教諭・薮下誠一(綾野剛)は、保護者・氷室律子(柴咲コウ)に児童・氷室拓翔への体罰で告発された。
体罰とはものの言いようで、その内容は聞くに耐えない虐めだった。
これを嗅ぎつけた週刊春報の記者・鳴海三千彦(亀梨和也)が”実名報道”に踏み切る。
過激な言葉で飾られた記事は、瞬く間に世の中を震撼させ、薮下はマスコミの標的となった。
誹謗中傷、裏切り、停職、壊れていく日常。次から次へと底なしの絶望が薮下をすり潰していく。
一方、律子を擁護する声は多く、”550人もの大弁護団”が結成され、前代未聞の民事訴訟へと発展。
誰もが律子側の勝利を切望し、確信していたのだが、法廷で薮下の口から語られたのは「すべて事実無根の”でっちあげ”」だという完全否認だった。
これは真実に基づく、真実を疑う物語。

タイトルが『でっちあげ』で、原作もあるし、「真実に基づく…物語」と謳っているので、ネタバレ的なことを多少書いてしまうと、要は被害者と思われた母親の「でっちあげ」から起こる事件である。
そして、劇中、法廷で嘘を指摘された時の母親 柴咲コウが怖い!
「こんな嘘をつける人がいるんだ⁈」と驚愕してしまった。

しかし…。
この映画なのか、元になった原作のルポルタージュなのかわからないが、徹頭徹尾、原告側(母親、父親と子供)が悪者として描かれている。
そして最終的に裁判では、ほとんどの部分が「でっちあげ」で、教師は無事復職出来て、ある意味「めでたしめでたし」となっている。
でも、果たしてそれでいいのだろうか??

映画の中でもそうだし現実でもそうだが、実際にはこういう「殺人教師」という怪物を「でっちあげ」るのは、実は<マスコミ>であり、家に誹謗中傷の貼り紙をしたり、ネットに適当な書き込みをして<「正義漢」を気取る世間>なのではないだろうか?
にもかかわらず、本当の「悪」は罰せられたり、映画の中でもなんら責められることもなかった。
だから、鑑賞後感として溜飲が下がらないと言おうか、カタルシスを感じないのだ。

それが、多少失礼な言い方をすれば、東映的と言おうか三池的と言おうか、あまりに構図としてわかりやすい映画として作ってしまっている気がしてならない。
せめて、亀梨演じる「でっちあげ」記事を書いた記者が、裁判後「どうするのか?」「どうなるのか?」を描いて欲しかった。

おそらく綾野剛がこの役を受けたのは、自らの経験(例のガーシー問題)もあってのことだろう。
だとしたら、あの騒ぎもあれだけ大きくなったのは、ガーシー本人の問題だけではないことを、映画の中ではきちっと語って欲しかった。そんな気がする映画だった。