『首』というタイトルの意味

映画を観る時、まあ、こういう仕事をしておいてこんなことを書くのもなんだが、僕はほとんど映画評を見ない。
なので、『首』というタイトルが、何を意味しているかを知らずに映画『首』(北野武監督作品)を鑑賞した。
要は戦国時代において、戦場で戦う(現場の)侍が自分の手柄を立証するために、敵の武将の首を斬り取り「エビデンス」として主の元に持参したり。(その上司である)武将も、DNA鑑定があるわけではないし、死体が本人のものであるかはわからないので、それを確認するために首を使って(生首の顔を見て)検証したり。
そんな役割が「首」にはあることから、こういうタイトルがついたのだと思う。

ただ、気になるのは、確かにモチーフとして「首(や、首のない死体)」が作品の中で、よく出ては来るのだが、あまり本筋と関係ないというか、「首」は単なるモチーフであり、映画を観ていてこの映画のテーマとはあんまり関係ないような気がした。
いや、もっと言うと、この映画のテーマとは何だったのだろう?未だイマイチ理解できていない…。

僕は北野武監督作品はほとんど見ているつもりだが、今回気になったのが、役者としてのビートたけしが、ちょぃちょいアドリブを入れるのだが、それが現代劇ではないため、相手の役者のリアクションも不自然だったりして、なんか興醒めする瞬間が多かったことだ。
確かに北野監督作品らしい、グロテスクな「殺人シーン」(時代劇だけど、この言葉がぴったり来る)はふんだんにあるのだが、どれも散漫だし、テーマが良くわからないので、何に感情移入すればいいのかよくわからない。

鑑賞後、わからない部分を調べている中で、この映画が、メディアに載っている記事を鵜吞みにすれば、監督サイドとKADOKAWA(プロデュース)サイドが、クランクアップ後、つまり編集時にも色々揉めていたこと、もっと言うと、かつての森プロデューサーが更迭されて以降、監督の奥様が、金銭的なマネジメント含め、重要な役割を担っていることなどを記事で読んだ。
そういう中で、カンヌ映画祭に間に合わせるため、本編集に時間がかけられなかったという現実もあったようだ。
正直真偽の程はわからないが、もしそうなら、冷静に俯瞰で見る存在の欠如が、監督の入れたいシーンの詰め合わせで、テーマ性の見えない散漫な印象の映画を作ってしまったことも理解はできる。

ただ、これはあくまで僕の憶測だが、この映画が戦国時代の「男色」を描いていたり、織田信長の近習である黒人の弥助(副島淳)に対する描き方として、少々人種差別的表現があったりと、その辺のセンシティブな表現を大企業たるKADOKAWAが、特に角川歴彦氏が不祥事によって退いたこともあり、コンプライアンス的なことも気にして、編集にも口出ししたため揉めたのではないか、と気にしてしまうほど、今の日本にはそぐわない表現が多かった気が僕はした。

いずれにしろ、たけしさんの映画は人間関係の複雑さを描くことも含め、現代劇の方が感情移入しやすいし、まあ「ドンパチ」があった方が「らしい」し「面白い」と感じた。
単純に次回作は現代劇がいいなあ…。

次は、『ナポレオン』か『ウイッシュ』か。正月映画はまだまだ観たい物が山済みなので、また近い内書きます。