映画『ルックバック』(実写版)
『ルックバック』は、同じ藤本タツキの原作をもとにしながら、2024年の劇場アニメ版と2026年の是枝裕和監督による実写版では、かなり異なる映画になっている。
<ストーリー>
自信家である小学4年生の藤野は、学年新聞に4コマ漫画を連載し、クラスメイトたちから絶賛されていた。
しかしある日、学年新聞に掲載された不登校の同級生・京本の漫画を見て、その圧倒的な画力に打ちのめされる。
それ以来、藤野は絵がうまくなりたい一心で漫画を描き続けるが、京本との差は埋まらず、一度は漫画を描くことを諦めてしまう。
しかし卒業式の日、京本の家に卒業証書を届けに行った藤野は、京本が自分の漫画のファンだったことを知る。
漫画へのひたむきな思いで結ばれた藤野と京本は一緒に漫画を描くようになり、かけがえのない時間を積み重ねていくが、そんなふたりの日常を大きく揺るがす出来事が起こる。
アニメ版は押山清高監督による58分の作品で、原作の物語や台詞をかなり忠実に映像化している。
漫画の「線」そのものを動かすことで、藤野と京本が漫画を描く喜びや、二人の身体の躍動をアニメーションならではの方法で表現した作品だった。
原作の持つスピード感を損なわず、短い尺の中に二人の出会いから喪失までを凝縮している。
一方、実写版は99分。
物語の骨格そのものを大きく変えるのではなく、原作やアニメでは省略されていた日常や家族、学校、漫画を描く時間を膨らませている。
特に大きいのは、秋田県にかほ市を中心に実際の土地で四季を通して撮影したことだ。
藤本タツキの故郷でもあるにかほ市の風景を、二人の13年間の時間そのものとして取り込んでいる。
さらに実写版には、原作にもアニメ版にもないアニメーションパートが終盤に挿入される。
つまり、アニメ版が「漫画をアニメーションとしてどう動かすか」に重点を置いた作品だとすれば、是枝版は「この物語を現実の土地と人間の身体に置き換えたらどうなるか」を追求した映画だと言える。
そのうえで、私自身の感想を言えば…。
私はアニメは門外漢である。だからこそ、アニメ版の『ルックバック』は素直に楽しめたのだと思う。
アニメーションという表現そのものに対して余計な知識や先入観がないので、「こういうものなのだ」と受け止めることができた。
しかし、私自身、実写映画の製作を生業にしている。
そして子供のころから洋画、とりわけハリウッド映画をずっと観てきた。
その目で実写版を観ると、どうしても引っかかるところがある。
それが、画角とルックだ。
ヨーロッパビスタ、つまり1:1.66に近い、横には短い画面。
そして、あえてざらつきを残したような映像で、にかほの美しい風景を捉えている。
もちろん、是枝氏がそこにこだわったことも理解できるし、原作者の藤本タツキ自身の記憶に近い風景として撮られているのだから、それはそれで正しいのだろう。
実際、にかほ市を四季を通して撮影したこと自体が、この映画の重要な方法論になっている。
ただ、私にはどうしても「なぜ、この画面なのか?」という感覚が残ってしまった。
こんな広大な田畑を、四季に亘って撮り続けるなら…。
狭い部屋で漫画を描いている少女たちの息づかいを、狭い画角によって表現したいという意図は、理解できないわけではない。
だが、それならばカメラワークやレンズ、人物との距離、編集によっても、同じような閉塞感や親密さを表現できるのではないか、と私は思ってしまう。
これは、たぶん映画を観てきた場所の違いなのだろう。
漫画や、アニメーションを中心に映画を観てきた人には、この画角、この質感、この「間」が自然に受け入れられるのかもしれない。
一方、洋画、とりわけハリウッド映画を基準に実写映画を観てきた私には、どうしても「なぜ、この表現を選ぶのか」という疑問が残ってしまう。
だから『ルックバック』は、私にとって面白い映画であると同時に、少しだけ「一見さんお断り」の映画でもあった。
「アニメ好き」なら納得できる。「是枝裕和好き」なら、彼が現実の風景や日常の時間をどう切り取ってきたかという文脈から理解できる。
しかし、そのどちらでもない洋画好きの私には、もう一歩入り込めない感覚が残った。
もちろん、それが悪いという話ではない。
むしろ、原作・アニメ・実写という三つの『ルックバック』が、それぞれ異なる映画言語を持っているということなのだろう。
ただ、私は今回、改めて「自分がどんな映画を観てきた人間なのか」を意識させられたのであった。
