映画『スター・ウォーズ マンダロリアン・アンド・グローグー』
正直、エピソード1~9はすべて観ているし、BDも持っている。
そういう意味では❝スター・ウォーズファン❞と言ってもいいとは思う…。
<ストーリー>
物語の舞台は、『スター・ウォーズ ジェダイの帰還』後の銀河。
帝国崩壊後も新共和国の統治は行き届かず、無法者や帝国軍残党がはびこる混沌とした時代が続いていた。
そんな中、強大なフォースを秘めた孤児グローグーは、その力を狙う者たちに追われる存在となる。
彼を守ることを決意した賞金稼ぎディン・ジャリンことマンダロリアンは、危険に満ちた銀河を旅しながら、次第に親子のような絆を育んでいく。
…しかし、私は、スピンオフというものをほぼ観ていなかった。
ゆえに、『マンダロリアン・アンド・グローグー』を観て、衝撃を受けた。
「あの遠近法を使った❝オープニングクロール❞も、ジョン・ウィリアムスの「スター・ウォーズのテーマ」も流れないんだ…」。
この感覚は、たぶん長年「本編」しか追ってこなかったファンには分かると思う。
『スター・ウォーズ』と言えば、まず青い文字のクロールが宇宙へ消えていき、あのテーマ曲が鳴り響く。
善と悪、ジェダイとシス、銀河の命運を賭けた戦い。
そういう❝神話❞的なスケール感こそが、『スター・ウォーズ』だった。
しかし『マンダロリアン・アンド・グローグー』は、そこからかなり距離を取っている。
もちろん世界観は同じだ。
Xウイングも出るし、ドロイドもいるし、フォースの気配もある。
だが、描いているものが根本的に違う。本作は、銀河全体の戦争ではなく、❝親子❞に近い感情を軸にしたロードムービーなのだ。
エピソード1~9は、極論すればスカイウォーカー家の物語だった。
アナキンの転落、ルークの成長、レイへの継承。運命に選ばれた者たちの叙事詩である。
だから演出も常に大きい。共和国崩壊、デス・スター破壊、皇帝復活など、銀河規模の出来事が中心になる。
一方、『マンダロリアン』系列は違う。
主人公ディン・ジャリンは、別に銀河を救おうとしていない。
賞金稼ぎとして生きていただけの男が、グローグーという小さな存在を守るうちに、少しずつ変わっていく。
そのスケール感が実に❝地面❞に近い。
だからこそ、西部劇やロードムービーのような空気が強いのである。
これは、従来の『スター・ウォーズ』ファンには新鮮だった。
今までのシリーズは、どうしても❝ジェダイ中心❞だった。
しかし『マンダロリアン』は、フォースを使えない普通の人々の生活圏が見える。酒場の荒くれ者、辺境の住民、傭兵、賞金稼ぎ。
つまり、「銀河に生きる庶民」の物語なのだ。
そして本作で面白いのは、そのスピンオフ的な視点を持ちながら、映画としてのエンタメ性を極限まで高めている点だ。
戦闘シーンは明らかにスピード感重視で、旧シリーズの「宇宙オペラ」というより、現代的なアクション映画に近い。
テンポも速い。エピソード8や9の頃には、「スター・ウォーズって少し重すぎるな」と感じる瞬間もあったが、本作はもっと軽快だ。
さらに、グローグーの存在が絶妙である。かわいいだけのマスコットになっていない。
彼がいることで、無骨なマンダロリアンの感情が引き出される。
無言でヘルメットを被る男が、小さな存在に振り回される。
その構図は、どこか『レオン』のようでもあり、近年のハリウッド映画らしい❝疑似家族❞の物語にも見える。
ただ一方で、従来の『スター・ウォーズ』らしい❝神秘性❞は薄くなったとも感じた。
ジェダイやフォースをめぐる宗教的な空気感より、アクションやキャラクター性が前面に出ている。
そこを物足りなく感じる古参ファンもいるだろう。
だが、シリーズが50年近く続く以上、変化しなければ先細りするのも事実だ。
むしろ本作は、『スター・ウォーズ』という巨大シリーズが、神話だけではなく、冒険活劇として再生しようとしている作品なのかもしれない。
そしてラスト近くになると、私は妙な感覚になった。
「これ、『スター・ウォーズ』と『ジュラシック・ワールド』と『トップガン』のいいとこどりではないか?」と。
未知の生物との交流や保護は『ジュラシック・ワールド』的だし、高速飛行や空中戦の爽快感は『トップガン』を思わせる。
そしてもちろん、その根底には『スター・ウォーズ』特有の宇宙冒険活劇がある。
旧シリーズのような「銀河の神話」ではない。
しかし、大人と子供が一緒にワクワクできる娯楽映画としては、かなり完成度が高い。
『スター・ウォーズ』というブランドを使いながら、実はかなり別ジャンルの映画を作っている。
その大胆さこそが、『マンダロリアン・アンド・グローグー』最大の魅力なのだと思う。
