映画『バックルームズ』
『バックルームズ』を観て、まず思ったのは、「『8番出口』に近い映画」という論評には、少し違和感があるということだ。
<ストーリー>
家具店の店主クラークは、店内に“あるはずのない隙間”を発見する。
その先には壁の裏側へと抜け落ちるように続く、全面が黄色い壁紙の異様な空間が広がっていた。
奇妙なバランスで積み上げられた無数の家具に、果てしなく続く迷路のような黄色い部屋。
どこからともなく断片的なアナウンスが聞こえてくるが、呼びかけても応答はない。
クラークはセラピストのメアリーにこの異様な空間について説明したものの信じてもらえず、その存在を証明するべく、記録用のビデオカメラを手に再び足を踏み入れるが…。
確かに、日常空間に潜む「異変」や、無限に続くような不気味な空間という表面的な共通点はある。
しかし、両者が映画として成立するまでのアプローチは、かなり違う。
『8番出口』は、ネットやゲームのミームをそのまま映画館に持ち込んだ作品ではない。
川村元気版の『8番出口』は、プログラミングやゲーム文化、ネットミームに詳しくない一般の映画観客にも楽しめるよう、ストーリーの構成、登場人物の動機、異変を探すゲーム性、そして最後の謎解きによるカタルシスを、きちんと「映画の文法」に翻訳している。
一方、『バックルームズ』は、その成り立ちからして正反対だ。
監督のケイン・パーソンズは、もともと「Kane Pixels」の名義でYouTubeに『The Backrooms』を発表し、その世界をネット上のコミュニティとともに拡張してきた人物である。
16歳で投稿した映像が巨大な反響を呼び、A24によって長編映画へと進んだ。
つまり彼にとって、この作品世界は「映画化する原作」ではなく、自分自身がネット上で作り上げ、すでに共有されている文化そのものなのだ。
だから本作でパーソンズがやったことは、必ずしも「映画への翻訳」ではない。
むしろ、YouTubeで培ってきたコミュニティのノリ、いわば「村のルール」を、そのまま映画館の巨大なスクリーンへ直輸入するという力技だったのではないか。
A24という商業スタジオのバックアップによって、30,000平方フィートもの巨大なセットや一流俳優を使えるようになった。
それでも、発想の根っこはあくまでネット発の文化にある。
だからこそ、映像としては圧倒的に面白い。
黄色い壁、蛍光灯、無機質な廊下、どこまで行っても出口のない空間。美術と撮影によって作り出された「リミナルスペース」の不安感は、確かに大スクリーンで観る価値がある。
ただ、私が観ていて感じたのは、むしろ『夜勤事件』に近い感覚だった。
まさに『夜勤事件』を筆頭とするJホラーゲームが、低解像度のVHS風グラフィックや、説明の一切ない不条理な展開によって、「わかる人だけ、この恐怖に浸ってくれ」というスタンスを取っているように、海外のネットミーム発の作品にも、「予習してこない奴は置いていく」という排他的なスノビズムがある。
もちろん、それ自体が悪いわけではない。
ネット文化には、共有された前提を知っている者同士だからこそ成立する楽しさがある。
しかし、それを映画館に持ち込んだ瞬間、話は少し変わってくる。
映画館に「お金を払って」観に来た観客をもてなす。初めてその世界に触れる人にも物語を理解させ、恐怖や驚き、笑いや感動を提供する。
それが興行としての映画のプロフェッショナルなサービス精神だと思う。
ところが『バックルームズ』には、ときにその感覚が希薄に感じられる。
むしろ「俺たちの聖域、俺たちのコミュニティの空気を吸わせてやっている」という、独特の傲慢さすら感じる。
ネットミームを映画にすること自体が問題なのではない。
問題は、ネットの「内輪の面白さ」を、映画という公共の場でどう観客と共有するのかという翻訳作業を、どこまで意識したかだ。
『8番出口』との違いは、まさにそこにある。
『8番出口』が「ネット発のアイデアを映画にした作品」だとすれば、『バックルームズ』は「ネット文化そのものを映画館に持ち込んだ作品」なのだ。
その文化に造詣が深い人なら、大いに楽しめるだろう。
しかし、そうではない人が、ただ「一本の映画」としてフラットに楽しみに来たとき、「迎合されていない」「自分は観客として相手にされていない」と感じてしまうのも、当然ではないかと思う。
