映画『オークストリートの異変』
一言で言えば、「グロい」恐竜が多かった…。
<ストーリー>
プラット家の4人家族は、平和な町オークストリートで普通の毎日を過ごしていた。
しかしある日を境に町で不思議な現象が起こりはじめ、水道や電気も完全に止まってしまう。
不穏な空気が町を覆うなか、絶滅したはずの恐竜が次々と現れ、住民たちを容赦なく襲いはじめる。
プラット家の家族は手近な武器を手に取り、さまざまな恐竜の脅威をくぐり抜けて町から脱出するべく奔走するが……。
映画『オークストリートの異変』を観て、まず思い浮かべたのが『ジュラシック・パーク』シリーズだった。
どちらも現代社会に恐竜が出現し、人間がその脅威から逃げ、生き延びようとする物語である。
実際、本作も平和な住宅街に突如として恐竜が現れ、普通の家族がサバイバルを強いられるという設定だ。
ただし、両者の恐竜に対するアプローチは、かなり異なっている。
『ジュラシック・パーク』シリーズでは、恐竜そのものが一種の「知的好奇心」の対象になっている。
ティラノサウルス、ヴェロキラプトル、トリケラトプスなど、登場する恐竜の名前や特徴が物語の中で明確に示される。恐竜好きでなくても、「これはティラノサウルスだ」と認識できるように作られている。
それは、恐竜を科学的に再現することへのこだわりとも結びついている。
ところが、『オークストリートの異変』では、そこがかなり違う。
個人的に興味深かったのは、恐竜の種類について、ほとんど説明がなされないことだ。
図鑑などで見たことがあるような恐竜だけではなく、「これは一体何という恐竜なのか」と思うような姿のものまで登場する。
それぞれの生物について、名前や生態を理解することよりも、「何だか分からない巨大な生物がこちらに向かってくる」という恐怖そのものを優先しているように感じられる。
さらに決定的なのが、恐竜の「体毛」だ。
『ジュラシック・パーク』シリーズの恐竜は、基本的に私たちがイメージする爬虫類的な姿をしている。
もちろん現在の恐竜研究では、獣脚類の一部には羽毛や体毛に近い構造があったと考えられているが、『ジュラシック・パーク』が作り上げた恐竜像は、映画的な意味での「恐竜らしさ」に基づいている。
一方、本作の恐竜には体毛が生えているものが多い。
しかも、その姿は必ずしも「最新の恐竜学に基づいたリアルな復元」とは感じられない。
むしろ、見た瞬間に生理的な不気味さを覚えるような造形になっている。
ここに本作の恐竜映画としての立ち位置があるのではないか。
つまり、『オークストリートの異変』は、恐竜を「科学的にリアルな存在」として描こうとしているというより、「怪獣」に近い存在として描いているのだと思う。
『ジュラシック・パーク』において恐竜は、科学技術によって蘇った生命という設定そのものにリアリティを持たせる必要があった。
だからこそ種類が分かり、行動原理があり、生態がある。それに対して本作では、恐竜がどこから来たのか、なぜこのような姿なのかという説明以上に、「突然、得体の知れない巨大生物に襲われる」という体験が重要になっている。
その意味では、恐竜というより「怪獣」なのである。
実際、本作は監督・脚本をデヴィッド・ロバート・ミッチェル、製作をJ・J・エイブラムスが務め、80年代の家族向けホラー映画を思わせる空気感も意識されているという。
だから、恐竜の体毛も、奇妙なフォルムも、種類を説明しないことも、欠点というより「怖がらせるための選択」と考えたほうが腑に落ちる。
『ジュラシック・パーク』が「恐竜が本当に蘇ったら」という科学的ロマンから恐怖を生み出した映画だとすれば、『オークストリートの異変』は「もし自分の家の前に、正体の分からない怪獣が現れたら」という恐怖を恐竜に託した映画なのだ。
同じ恐竜映画でも、目指しているものはかなり違う。
その違いこそが、本作を『ジュラシック・パーク』シリーズとは別の方向へ進ませている最大の特徴だと思う。
