『教場Ⅲ』
『教場』シリーズは、1、2が特番ドラマとして、0がレギュラーのドラマとしてフジテレビで放映された。
そして3として、Netflix『Reunion』、その続編である現在劇場公開中の『Requiem』という形になっている。
原作は長岡弘樹の警察小説。冷徹な教官・風間公親が警察学校という閉ざされた空間で、生徒たちの虚栄や弱さをあぶり出し、時に退校へと追い込んでいく。
主演の木村拓哉は、感情を削ぎ落とした義眼の教官という難役を演じ、従来のヒーロー像とは異なる静のカリスマを体現した。
脚本は君塚良一。緻密な心理戦と伏線回収で知られるベテランである。
1、2が高い評価を得た理由は明確だ。
警察学校という特殊な環境で、「正義」を志して入ってきた若者たちが、自らの過去や欺瞞を暴かれ、理想と現実のはざまで脱落していく。
その過程がサスペンスとしても人間ドラマとしても機能していた。
風間は冷酷だが、彼なりの合理性と信念があり、視聴者はその厳しさの奥にある責任感を読み取ることができた。
しかし0で風間の前日譚、すなわち現場の指導官刑事時代が描かれ始めたあたりから、雲行きが怪しくなったように感じる。
理由はおそらく三つある。
一つは、木村拓哉というスターの神格化が進み、それに比例して風間公親も現実離れしていったことだ。
1、2では「冷酷だが一理ある教官」だったはずが、0以降はほとんど全知全能の存在のように描かれる。
部下の嘘を一瞬で見抜き、事件の核心を即座に言い当てる。
その洞察力は痛快ではあるが、あまりに完璧すぎて人間味が後退してしまった。
スターのオーラが役柄を拡張しすぎた結果、物語のリアリティラインが揺らいだ印象がある。
二つ目は、風間の指導方法が時代の変化とともに、パワハラのように受け取られかねないものに見え始めたことだ。
人格を否定するような言葉で追い込み、退路を断つような指導は、作品世界では「ふるい落とし」として機能していた。
しかし現実社会でハラスメントに対する感度が高まる中、その描写は以前ほど無条件に受け入れられなくなった。
視聴者が風間の意図を理解していても、「そこまで言う必要があるのか」という違和感が先に立つ瞬間が増えたのは否めない。
三つ目は、脚本の問題である。
君塚良一は今年68歳。数々の名作を手がけてきた名手だが、指導過程で起こるエピソードの作りに、どこか既視感や強引さが混じるようになった。
たとえば、生徒の過去の秘密があまりに都合よく露呈したり、事件の展開が風間の推理力を際立たせるためだけに配置されているように見えたりする場面だ。
かつては人物の感情の揺れが物語を動かしていたのに、近作ではプロットが先に立ち、感情が後追いになっている印象を受ける。
結果として、警察学校というリアルな装置が、やや舞台装置的に見えてしまうのだ。
Netflixで配信された『Reunion』、そして劇場版『Requiem』は、スケールを拡大し、過去と現在を交錯させる構成でシリーズの集大成を目指したのだろう。
しかし、その壮大さが逆に、風間という人物の輪郭をぼかしてしまった感もある。
閉鎖空間での緊張感という原点から離れたことで、シリーズ特有の息苦しいまでの心理戦が希薄になった。
私は、1、2も好きだったし、0も良かったと思っている。
しかし、3(『Reunion』『Requiem』)は、やはり上記の理由もあり、何とも言えず消化不良のイメージが残ってしまった。
まあ、これも人気シリーズの宿命かもしれないが…
