映画『コート・スティーリング』
私は、好きなタイプの映画である。
でも、私が観たシネコンのサイトには、私以外誰一人観客がいなかった。
ゆえにおそらく、興行的には厳しいのが容易に想像できる…。
なぜだろうか?少し考察してみたい。
<ストーリー>
1998年、ニューヨーク。
かつてメジャーリーグのドラフト候補になるほど野球で将来を嘱望されたハンクだが、運命のいたずらによって夢は潰え、今はバーテンダーとして働きながら恋人のイヴォンヌと穏やかな日々を送っていた。
そんなある日、変わり者の隣人ラスから突然ネコの世話を頼まれる。
親切心から引き受けたのもつかの間、街中のマフィアたちが次々と彼の家に殴り込んでくる。
ハンクは、自分が裏社会の大金絡みの事件に巻き込まれたことを知るが、時すでに遅かった。
警察に助けを求めながら逃げ回る日々を送る中で、ついにある悲劇が起こる。
ついに堪忍袋の緒が切れたハンクは、自分を巻き込んだ隣人やマフィアたちへのリベンジを誓う。
『コート・スティーリング』は、『π』や『ブラックスワン』などで知られるダーレン・アロノフスキー監督作品である。
ジャンルで言えばクライムサスペンスに分類される作品だが、単なる犯罪映画として片づけるには少々もったいない。
物語の構造は比較的シンプルで、テンポも決して悪くない。
それでも、この映画は観る側にある種の「引っかかり」を残す。
その引っかかりこそが、本作の魅力であり、同時にヒットしにくい理由でもあるのだろう。
中盤で特に印象的なのは、物語のモチーフとしてユダヤ人やロシア人が配置されている点である。
これは単なる設定上の味付けではない。
アメリカ映画は昔から、移民国家としての歴史や、人種・民族間の緊張関係を娯楽作品の中に巧妙に織り込んできた。本作もその系譜に連なっている。
登場人物たちのバックグラウンドには、信仰、出自、アイデンティティが色濃く影を落としており、それが行動原理や価値観のズレとして表面化する。
ユダヤ人という存在は、アメリカ映画においてしばしば「知性」や「伝統」、時に「猜疑心」と結びつけて描かれる。
一方でロシア人は、冷酷さや暴力性、あるいは旧世界的な倫理観の象徴として扱われがちだ。
本作もそのステレオタイプを完全に否定はしないが、安易に消費することもしない。
むしろ、それぞれの人種観が衝突し、すれ違う様を淡々と描くことで、「アメリカ的価値観」が決して一枚岩ではないことを浮き彫りにしている。
こうした描写は、アメリカの観客にとっては日常的でリアルな問題意識なのだろう。
しかし、日本の観客にとっては少し距離がある。
善悪や勧善懲悪で割り切れない構図、登場人物たちの倫理的なグレーゾーンは、理解するのに一歩踏み込む姿勢を要求される。
娯楽としてのわかりやすさを求める層には、やや取っつきにくい印象を与えたかもしれない。
ヒロインのイヴォンヌ(ゾーイ・クラヴィッツ=レニー・クラヴィッツの娘)もルックスも含め、少々癖がある。
そういうダイバーシティを好まない(?)日本人、そして日本マーケットでは、この手の映画でヒットを狙うのは難しいのかもしれない…。
そんなことを感じる「面白い映画」であった。
