映画『8番出口』を観た

元東宝の映画プロデューサー川村元気の監督作品である。
正直観る気はなかったが、「ヒットしている」という情報が結構出回っていたため、乗り遅れないために観たというのが本音だ。
(私はゲームをやらないので、題材としてあまり興味がなかったので…)
<ストーリー>
蛍光灯が灯る無機質な白い地下通路を、ひとりの男が静かに歩いていく。
いつまで経っても出口にたどり着くことができず、何度もすれ違うスーツ姿の男に違和感を覚え、自分が同じ通路を繰り返し歩いていることに気づく。
そして男は、壁に掲示された奇妙な「ご案内」を見つける。
「異変を見逃さないこと」「異変を見つけたら、すぐに引き返すこと」「異変が見つからなかったら、引き返さないこと」「8番出口から、外に出ること」。
男は突如として迷い込んだ無限回廊から抜け出すべく、8番出口を求めて異変を探すが……。
もともと原作は、いわゆる「ストーリーのないゲーム」であり、ただ無限に出口が続いていくというループ状の世界に、プレイヤーが不気味さや異常を感じ取る仕掛けだけがある。
つまり、映画化にあたっては、物語的な要素をほとんどゼロから構築しなければならなかったわけだ。
その難題に真正面から挑んだのが、監督の川村元気である。
川村について語る時、私が思い出すのが、別の東宝のプロデューサーから聞いた「川村は一年に百冊の本を読む」というエピソードだ。(1ヶ月だったっけかなあ…?)
彼は、そこまでの読書量を自らに課し、常に新しいアイデアの源泉を取り込んでいるということだろう。
本を読むという行為は、情報をただ得るだけでなく、思考のストックを積み上げる作業でもある。
ある作品の構造や人物造形が、別の文脈で再構成されることで新しい物語が生まれる。
川村の発想力の豊かさは、この「情報量の多さ」と「アイデアの引き出しの多さ」に支えられていると言えるだろう。
『8番出口』の映画版が見せるのは、ゲーム的なループ構造をただ映像化するだけでなく、その背後に人間の不安や社会的な閉塞感を織り込んでいくという手法だ。
延々と繰り返される通路の先に、出口があるのか、それとも出口そのものが幻想なのか。
観客は、ルールを知らされないまま閉じ込められた登場人物と共に、出口を探すという体験に巻き込まれる。
この「ストーリーのないゲーム」を「物語のある映画」として成立させた要因は、まさに川村の膨大な読書経験にあるのではないかと思う。
彼が日々吸収している多種多様な本の内容が、記憶の底に沈み込み、無意識のうちに新しい形をとって浮かび上がってくるのではないだろうか。
映画を観終わったあと、観客の心に残るのは、単なるホラー的恐怖ではなく、出口のない世界に囚われる現代人の寓話としての重みだろう。
そこに「偶然の妙」があるわけではない。川村元気が日々浴び続けている情報とアイデアの蓄積が、ストーリーを持たなかった原作に新たな意味を与えたのだ。
結局のところ、川村の読書量はそのまま彼の創作の方法論に直結していると思う。
アイデアを無限に引き出せる「本棚」を頭の中に持っているからこそ、ストーリーのない素材からでも、観客を引き込む物語を立ち上げることができる。
『8番出口』は、その読書量が具体的に形になった一例だと言ってもいいだろう。