映画『トロン:アレス』

『トロン:アレス』は、『トロン』『トロン:レガシー』から連なる続編である。

<ストーリー>
AIプログラムを実体化する画期的な発明によって開発された、AI兵士のアレス。
“彼”は圧倒的な力とスピード、優れた知能を持ち、倒されても何度でも再生可能という、まさに史上最強の兵士だった。
だが、現実世界で人間を知ったアレスにある“異変”が起きる。
やがて、制御不能となったAIたちは暴走を始め、デジタル世界が現実世界を侵食していく。
果たして、アレスの驚くべき目的とは…?

1982年のオリジナル『トロン』は、ディズニーが当時としては異例の試みとして、世界初の大規模なCG表現を導入した映画だった。
コンピュータの中の「電子世界」を舞台に、人間がプログラムとしてデジタル空間を旅するという発想は、まだ「パソコン」という言葉が一般的でなかった時代において、ほとんどSFの先端そのものだった。
現代から見ればぎこちなく見えるポリゴンも、当時の観客にとっては衝撃的で、映像表現の新時代を告げる一作となった。

そして、2010年の『トロン:レガシー』は、そのビジュアル的遺産を継承しつつ、よりスタイリッシュでモダンな「デジタル神話」として再構築された。
前作で失踪した主人公フリンの息子サムが、父を探して再び電子世界に入る物語は、デジタルと人間、創造主と被造物、そして父と子というテーマを巧みに重ねていた。
音楽を手がけたダフト・パンクの冷たくも荘厳なサウンドは、電子世界の神秘性と孤独を象徴するようでもあり、映像と音の融合としても見事だった。

しかし、『トロン:アレス』は、そこにもうひとつの軸――「AIと人間の境界」を持ち込んだことで、少々複雑な構造を帯びている。
ストーリーとしては、現実世界に飛び出したAIプログラムが「存在」として自立しようとする過程を描くが、ここにやや「リアリティの不足」があるように思う。
『トロン』シリーズの根幹にあるのは、常に「デジタルの中にもう一つの生命がある」という仮説だ。
しかし今回の作品では、その仮説を支える論理や心理的な説得力が薄く、観客が「なぜこのキャラクターがこう感じ、行動するのか」を深く理解できる余地が少ない。

前作までの「電子世界=もう一つの現実」という構造は、ファンタジーでありながらも、同時に哲学的なリアリティを持っていた。
たとえば、プログラムたちが「ユーザー(人間)」に対して信仰のような感情を抱く描写や、フリンが創造主でありながら自らの理想に囚われる構図には、宗教的な奥行きが感じられた。
だが『アレス』では、AIが現実世界で活動するという設定自体が、技術的にも倫理的にも現代の我々に近すぎるせいか、逆に“夢の世界”としての説得力を失っている。
現実とファンタジーの境界線が曖昧になった結果、かつて『トロン』が持っていた「空想の中の真実味」がややぼやけてしまった印象だ。

つまり、この作品は“現実味を帯びた非現実”をどう描くかという難題に直面している。
AIが人間の感情を持つこと、またそれを映像でどう表すか――そこにはテクノロジーだけでは埋めきれない「演出と脚本の精度」が求められる。
『トロン:アレス』は、その壮大な構想とビジュアルで観客を魅了する一方で、物語の心臓部にあるリアリティが、いま一歩、描き切れていない。

CGや合成技術は日進月歩であり、『トロン』の時代とは違い、もはや映像表現に不可能なものはなくなった。
ゆえに観客は、ただの❝スゲー!❞だけでは許してくれない。
「ファンタジー」と「リアリティ」の相関関係は、今後も永遠の課題であるように思う。