『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』

「タイトル、長っ!」。まあ、余計なお世話か…。
でも、台詞も長いんだよな…。

<ストーリー>
思い描いていた大学生活とはほど遠い、冴えない毎日を送る小西。
学内唯一の友人・山根や銭湯のバイト仲間・さっちゃんとは、他愛もないことでふざけあう日々。
ある日の授業終わり、お団子頭の桜田の凛々しい姿に目を奪われた。
思い切って声をかけると、拍子抜けするほど偶然が重なり急速に意気投合する。
会話が尽きない中、「毎日楽しいって思いたい。今日の空が一番好き、って思いたい」と
桜田が何気なく口にした言葉が胸に刺さる。
その言葉は、奇しくも、半年前に亡くなった大好きな祖母の言葉と同じで、桜田と出会えた喜びにひとり震える。
ようやく自分を取り巻く世界を少しだけ愛せそうになった矢先、運命を変える衝撃の出来事が二人を襲うー。

正直、劇場で公開されていた記憶がない。
河合優実に萩原利久ならありそうなものだが、宣伝が少ないとそうなってしまうのかもしれない。
それに、私自身が映画はシネコンでほぼ観るようになってしまった事もある。
だから、こういう小規模作品は、目が届かないうちに終わっていることが多いのだろう。

まあ、そういうわけでメジャー作品とは一線を画す演出がある。
伊東蒼、萩原利久、河合優実、それぞれに長台詞の独白のシーンがあるのだ。
「これだけの長台詞、よく覚えたな!」と感心する。

まず肯定的に言えば、大九監督は言葉に宿る呼吸や間の力を熟知している。
長台詞をただの「説明」や「朗読」にせず、役者の身体性や沈黙を織り込み、観客に「その人の思いが今まさに口からこぼれている」という生々しさを伝える。
特に、恋愛や家族との関係に揺れる若者の言葉は、決して整った言語ではないが、その不器用さこそが真実味を帯びていた。
ここに大九監督らしい繊細さと人間観察の鋭さが感じられる。

一方で批判的に見るなら、長台詞があまりにも頻出するため、作品全体のリズムが単調になりかねない。
観客に「考える余白」を与えるよりも、「言葉で埋め尽くす」方向に偏っている瞬間があり、そこには演出家としての自己陶酔すら感じられる。
言葉が過剰になると、むしろ心情のリアリティを削いでしまう危険がある。
特に後半の数場面では、台詞の重みがシーンの流れを停滞させ、映画的なダイナミズムが薄れてしまった。

また、大九監督はカメラをほとんど固定して役者の表情に寄り添う手法を取るが、その「凝視」が時に観客を窮屈にさせる。
もっとカットを変えることで視点をずらし、言葉に対する距離感を観客に委ねる余地があってもよかったのではないか。

総じて、大九監督の長台詞演出はこの映画の個性であり武器であると同時に、諸刃の剣でもある。
言葉が胸を打つ瞬間は確かにあるが、同時に「語りすぎてしまう」ことで観客の解釈や想像力を制限する場面もある。
だが、この危うさこそが大九作品の魅力であり、挑戦でもあるのだろう。
『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』は、その長所と短所の両面を如実に示す一本だった。