映画『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』
<ストーリー>
1978年、ラジオで耳にしたセックス・ピストルズに突き動かされて上京したカメラマンの青年ユーイチは、小さなロックミニコミ誌「ロッキンドール」をきっかけに、ライブハウスを訪れる。
そこは音楽もバンドも観客たちも何にも縛られない生のエネルギーにあふれた場所で、ボーカルのモモが率いるバンド「TOKAGE」のライブに衝撃を受けたユーイチは夢中でシャッターを押す。
正式にカメラマンとして撮影を依頼されたユーイチは、彼らと交流を重ねていく。
やがて彼らの音楽は若者たちを熱狂させ、そのムーブメントは「東京ロッカーズ」と呼ばれ日本のロックを塗り替えることとなる。
日本のパンクロックは、決してメインストリームの音楽ではなかった。
しかし、その地下に脈々と流れてきた熱量は、時代ごとに形を変えながらも確実に受け継がれてきた。
その中心にいた一人が地引雄一である。
彼は単なる音楽関係者ではなく、日本におけるパンクの“翻訳者”のような存在だった。
海外のパンクムーブメントを日本に紹介し、それを土壌に根付かせる役割を担った人物だ。
ライブハウス文化、インディーズシーン、DIY精神――そうしたものが混ざり合い、日本独自のパンクロックが形成されていった。
本作『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』は、まさにその流れの延長線上にある物語だといえる。
作品は、音楽そのものよりも「どう生きるか」という問いに重点を置いている。
夢や表現にしがみつく若者たちの姿は、どこか不器用で、しかし妙にリアルだ。
成功や評価といったわかりやすいゴールではなく、「自分の音を鳴らす」という曖昧で、それでいて切実な衝動が物語の核になっている。
その中心にいるのがモモを演じた若葉竜也だ。
彼の存在感は、この映画の空気を決定づけていると言っていい。
決して大げさな演技ではない。むしろ、抑えられた表情や、言葉にならない感情の滲み方で観客に訴えかけてくるタイプの役者だ。
私は、繊細で、ナイーブな青年を演じることができる役者(目黒蓮、松村北斗など)が、好きだ。
この作品における若葉竜也もまさにそれであり、それでいて、若いころの藤原竜也のような匂いのする、「色気」のある役者でもある。
この「色気」というのは、単なる外見の話ではない。
どこか危うく、壊れてしまいそうで、それでも踏みとどまっているような、そんな緊張感を内包した存在感のことだ。
若葉竜也は、それを非常に自然に体現している。だからこそ、彼がステージに立つシーンや、何気ない日常の一コマでさえ、観ている側は目を離せなくなる。
演技というよりも、そこに“いる”という感覚に近い。
映画としては、そこそこ楽しめた。
若者の葛藤や、音楽に対する純粋な衝動は、一定の説得力を持って描かれている。
ただ一方で、田口トモロヲ監督、クドカン脚本だと、抑揚が抑えられた作品に仕上がっており、ちょっと、おじさんの懐古趣味的な感じは否めない。
過去のカルチャーへのリスペクトが強い分、新しさという点ではやや弱く感じられるのも事実だ。
それでも、あの時代の熱をもう一度掬い上げようとする意志は伝わってくる。
その意味で、本作は過去と現在をつなぐ、小さな架け橋のような映画なのかもしれない。
