『ブラック・ショーマン』

福山雅治には公開直前でいざこざがあったが、オープニング3日間で興行収入5億5600万円だそうだ。
永野芽郁もそうだが、テレビ視聴率と違って、結局スキャンダルと映画の興行収入には、さほど相関関係はないように感じる。

<ストーリー>
コロナウイルス流行後、観光客が遠のき、かつての活気を失ってしまった町で、多くの教え子に慕われていた元中学校教師・神尾英一が何者かに殺害される。
父の訃報を受け、2カ月後に結婚を控えていた娘の神尾真世が、実家のある町に帰ってくる。
父はなぜ殺されなければならなかったのか。
真実を知りたいと願う真世の前に、元マジシャンの叔父・神尾武史が現れる。
かつてラスベガスで名を馳せた武史は、卓越したマジックの腕前とメンタリスト級の観察眼、誘導尋問を武器に、真世とともに事件の謎に挑む。

福山雅治の演技はどうなんだろうか?そう思いながら『ブラック・ショーマン』を観た。
近年の彼の出演作を振り返ると、どうしても感じてしまうのは「福山雅治らしさ」の強さだ。
もちろん俳優に個性は必要だし、それがスター性につながるのも事実だ。
しかし一方で、木村拓哉にしばしば指摘されるような「どの役を演じても結局は木村拓哉」という批判と、福山の演技はどこか重なって見える。
台詞の間の取り方、声のトーン、表情の作り方に至るまで、安心感と同時に既視感を強く覚えるのだ。

『ブラック・ショーマン』はタイトル通り、謎めいたカリスマ性をまとった男を中心に展開するサスペンスである。
物語の骨子は重厚だし、緊張感のある演出も多い。
だが主人公を演じる福山の演技が、その世界観に新しい厚みを与えているかと問われると、やや首を傾げざるを得ない。
声の低さと抑えた芝居はクールに映るが、逆に言えばどこか「安全な領域」から出ていない。
観客が予想する福山像の範疇に収まってしまい、キャラクターが鮮やかに立ち上がってこないのだ。

特に顕著なのは、感情を爆発させるべき場面においても、彼独特の抑制されたトーンが続くことだ。
怒りを示すときも、絶望を吐露するときも、微妙に声を落として渋みで押し切ろうとする。
その結果、観客が受け取るのは「福山雅治が感情を演じている姿」であり、「キャラクターそのものの叫び」ではない。
演技の技巧よりも、本人の持つスター性やイメージが前面に出すぎてしまう印象を拭えない。

一方で、作品そのものはなかなか挑戦的だ。
サスペンスの構造は緻密で、社会的なテーマ性もあり、映像の色調や音楽も計算されている。
脚本の骨太さに救われて、物語は最後まで観客を引きつける。
ただ、主演の芝居がもっと変幻自在であれば、この作品はさらに飛躍したのではないかと思えてならない。
同じ世代の俳優であれば、役ごとにまるで別人のように変わる人もいる。
だが福山は良くも悪くも「福山雅治」を提供し続けている。

これは演技に限らず、彼の音楽活動やメディア露出全般にも言えることかもしれない。
一定の完成度と安心感を与える一方で、予想を超える驚きにはなかなか出会えない。
その意味で、『ブラック・ショーマン』は福山雅治の俳優としての現在地を示す作品とも言えるだろう。
カリスマ性をまとった役を演じるにあたり、彼は確かに適任だった。
だがそれは「役と俳優が重なる」ことであり、「役が俳優を変える」瞬間は見られなかった。

結局のところ、『ブラック・ショーマン』は作品としては楽しめる。
しかし主演俳優に対しては、もう少し幅のある挑戦を望んでしまう。
木村拓哉が「木村拓哉らしさ」と格闘してきたように、福山雅治もまた、自らのイメージを打ち破る必要があるのではないか。
スター俳優であるがゆえに、その殻を破った瞬間の輝きは一層際立つはずだ。
次回作こそは、その「未知の福山雅治」に出会えることを期待したい。