映画『遠い山なみの光』を観ての感想

すごくいい映画だった。
とはいえ、2週目で劇場に行ったのに、もうすでに縮小傾向にあった。
観客もまばらであった。
惜しい気がする。いい映画なのに…。

<ストーリー>
日本人の母とイギリス人の父を持ち、大学を中退して作家を目指すニキ。
彼女は、戦後長崎から渡英してきた母悦子の半生を作品にしたいと考える。
娘に乞われ、口を閉ざしてきた過去の記憶を語り始める悦子。
それは、戦後復興期の活気溢れる長崎で出会った、佐知子という女性とその幼い娘と過ごしたひと夏の思い出だった。
初めて聞く母の話に心揺さぶられるニキ。だが、何かがおかしい。
彼女は悦子の語る物語に秘められた<嘘>に気付き始め、やがて思いがけない真実にたどり着く──。

これは、公式サイトに記載されているストーリーである。
つまり、母の語った「佐知子のストーリーは嘘」という意味だろう。
しかし私は「そうなのか??」という疑問が残った。

原作であるカズオ・イシグロ『遠い山なみの光』を私は読んでいないことを断っておく。
しかし、映画が原作に忠実であるならば、この物語は、戦後の長崎を舞台にした「記憶の物語」であり、その核心には「佐知子は本当に存在するのか?」という問いが横たわる。

現在イギリスに暮らす悦子は、長女景子の自殺を思いながら、戦後に長崎で過ごした日々を回想する。
その記憶の中で重要な位置を占めるのが、アメリカ人の恋人と渡米を望む女性・佐知子と、その娘万里子である。
佐知子は未来への希望を抱きながらも、母娘関係に深い不安を抱えており、その姿はどこか不穏で影のように描かれる。

しかし物語の中で、佐知子の存在は次第に曖昧になってゆく。
彼女の言動や境遇は、悦子自身や娘景子との関係と重なり合い、まるで投影や仮託のように響き合う。
特に、万里子に対する佐知子の冷淡さや距離感は、悦子と景子の関係を想起させ、記憶の語り手である悦子自身が、痛みを直接語ることを避けるために「佐知子」という人物を創り出しているのではないか、という解釈を可能にする。
そのため佐知子は、実在の人物とも、悦子の心の投影とも読める二重の存在となっている。
彼女は悦子の過去を語るための「仮面」であり、同時に戦後の不安や母娘の断絶を象徴する存在でもある。

(ここからは、カズオ・イシグロの原作に対する他者の評論と、私の想像を交えた感想でしかないが…。)
おそらく、最終的に読者は、佐知子が本当にいたのかどうかを確定できないまま物語を閉じるのではないだろうか?
そして、その不確かさこそが記憶の性質であり、この小説の核心なのではないだろうか。

『遠い山なみの光』は、母娘関係の痛みをめぐる物語であると同時に、「語られる記憶の信憑性」そのものを問いかける小説であり、映画なのではないだろうか。
少なくても私は、映画を観た後も、「佐知子が存在しない」という結論には達しなかったし、そう感じた観客も多かったはずだ。

テーマなどというものは、実は観客には、はっきりわからないことが多い。
しかし…。
マーケティングを踏まえ、物事を断定したりわかりやすくすることも結構だが、この映画の宣伝として、これを「嘘」と断ずるような表現は、この小説や映画の本質を毀損するような気がしてならない。