『花まんま』って、そういう意味なのね!

アマプラで『花まんま』を観た。
原作を読んでいないから、「花まんま」の意味がピンと来ていなかったが、「おまんま」=ご飯の「まんま」のことだったのね。

<ストーリー>
大阪の下町で暮らす二人きりの兄妹・俊樹とフミ子。
死んだ父との約束を胸に、兄として妹のフミ子を守り続けてきた俊樹は、フミ子の結婚が決まり、やっと肩の荷が下りるはずだった。
ところが、遠い昔に封印したはずの、フミ子の〈秘密〉が今になって蘇り…。
フミ子には幼少から別の女性の記憶があった。
「生まれ変わり」のようだがフミ子の存在は確固としてある。
フミ子が生まれたときに、若くして事件に巻き込まれ亡くなった女性の心が移っていたのだ。
それから22年、結婚式の前日、フミ子が隠し続けてきた事実が発覚する。

映画『花まんま』を観て思ったのは、死者が現世に戻ってくるモチーフの扱い方だ。
物語の中で、天国から父親がトラックに乗って帰ってくる場面は、突拍子もないようでいて、むしろ観客に自然に受け入れられる説得力を持っている。
それは、車というモチーフが長く物語において「生と死の境界を超える装置」として機能してきた歴史に裏打ちされているからだ。

たとえば重松清原作の「流星ワゴン」では、ワゴン車が文字通り死者との再会の場となり、過去と現在を行き来するタイムマシンのような存在として描かれる。
車は道を走るものであり、道はつねにどこかに続いている。
そこに「現世からあの世へ」「過去から未来へ」という時間的・空間的な移動のイメージを重ねることは、ごく自然な発想といえるだろう。

『花まんま』におけるトラックもまた、死者を呼び戻す象徴的な乗り物として描かれる。
ただしそれは単なるファンタジーの道具立てにとどまらず、父と子の関係性を浮き彫りにする装置として機能している。
生きている間には語れなかった思い、伝えきれなかった感情を、死を超えてトラックに乗って帰ってきた父が届ける。
この非現実的な出来事は、観客にとってむしろリアルな感情の回復として響く。
つまり、ファンタジーを通じて現実の心の痛みや救いが描かれているのだ。

作品全体を通じて感じられるのは、死者との再会という奇跡がもたらす切なさと温もりだ。
ファンタジーでありながら、観る者は自分の記憶や家族への思いを重ねずにはいられない。
父がトラックで戻ってくるシーンは、観客の心に眠っている「もう一度会いたい誰か」を呼び覚ます。その瞬間、映画は単なる物語を超え、観る者一人ひとりの個人的な体験に寄り添うものとなる。

そんなファンタジー映画としては、フミ子の中の喜代美の記憶が消えてしまう映画のラストは、ちょっと物悲しい…。
しかし、結婚式の引き出物として「花まんま」を受け取った父親の涙には、強く映画的なカタルシスを感じることができる。
『花まんま』は、家族愛を描いた作品として秀作だと思う。