映画『ウィキッド 永遠の約束』

正直、日本人には唐突に感じる部分が多いのではないだろうか?
なぜなら大前提として、アメリカ人は児童文学ボームの『オズの魔法使い』を、アメリカ独自の風景(カンザスの農場など)を舞台にした「アメリカ人のための最初のファンタジー」として、建国神話に近い愛着を持っているから。
ゆえに、本作もアメリカ人にとって説明不要の部分が多く、そこが根底にない日本人には、理解しがたい作品となってしまっているのである。

<ストーリー>
オズの国に隠された真実を知り、それぞれの道を歩むことになったエルファバとグリンダ。
「悪い魔女」として悪名を着せられ民衆の敵となったエルファバは、言葉を奪われた動物たちの自由のために戦い続けていた。
一方「善い魔女」となったグリンダは、希望の象徴として名声と人気を手にするも、その心にはエルファバとの決別が深い影となって落ちていた。
和解の言葉も届かず、2人の溝が深まっていく中、オズの国に突如現れた“カンザスから来た少女”によって運命は大きく動き出し、2人はかつてのかけがえのない友と向き合うことになる。

この映画を観る上で、理解しておかなければならない基本事項がいくつか(否、いくつも)ある。

まず、原作文学の関係性だ。
『オズの魔法使い』はL・フランク・ボームによる児童文学であり、勧善懲悪のシンプルな構造を持つ。
一方、『ウィキッド』はグレゴリー・マグワイアによって書かれた再解釈作品であり、「悪い魔女」とされた存在を政治的・社会的文脈の中で再構築している。
つまり、前者が神話的であるのに対し、後者は極めて現代的かつ批評的な物語なのだ。

そして、その『ウィキッド』がさらにミュージカル化され、今回の映画へと至る過程で、大きな変化が生じている。
原作小説はかなりダークで政治色も強いが、映画版はエンタメ性を優先し、友情や成長の物語へと軸足を移している。
結果として、エルファバとグリンダの関係性が中心に据えられ、複雑な思想的背景はかなり整理・簡略化されている印象を受ける。

また、さらにもう一点、事前理解が必要な重要事項がある。
<ストーリー>欄(これは公式サイトからコピペさせてもらった)で書いた「カンザスから来た少女」=ドロシーのことだ。

彼女はこの物語において「姿の見えない台風の目」のような特殊な役割を担っている。
しかし、ドロシーの基礎知識や概念がないと、「カンザスから来た少女」が重要であるとは気づかないのだ。

(アメリカ人にとっての常識を踏まえると、)ドロシーが「重要」理由は以下の3点に集約される。
1. エルファバを「死」に追いやる(はずの)刺客
アメリカの観客は全員、「最終的にドロシーが西の魔女(エルファバ)に水をかけて殺す」という結末を知った状態で『ウィキッド』を観ている。
そのため、劇中でドロシーの存在が示唆されるだけで、「ああ、ついにエルファバの最期が近づいているんだ」という強烈なサスペンス(緊張感)が生まれる。
2. 物語を動かす「装置」としての役割
『ウィキッド』の後半(永遠の約束)では、ドロシー自身がセリフを喋ったり活躍したりすることはほとんどない。
しかし、彼女の行動がエルファバたちの運命を決定づける。
A.ドロシーが「東の悪い魔女(ネッサローズ)」の上に家を落として殺した。
B.ドロシーが「銀の靴」を履いてしまった。
これらによって、エルファバは妹の遺品(靴)を取り戻すためにドロシーを捕らえざるを得なくなり、物語は悲劇的なクライマックスへと加速するのだ。
3. 「光」の裏に隠された「影」の主役
『ウィキッド』という作品の本質は、「有名な物語(オズの魔法使い)の裏側では、実はこんなことが起きていた」という構造にある。
A.ドロシーの視点(表): 悪い魔女を倒して家に帰る勇気ある少女の冒険。
B.エルファバの視点(裏): 独裁者に抗い、愛する人を守ろうとした結果、一人の少女(ドロシー)に殺されそうになる悲劇。
つまり、ドロシーは「出演シーンが多い主要キャラ」ではないのに、「エルファバの人生を終わらせに来る、運命の象徴」として、重要な存在になっているのだ。

この作品はこうした前提知識を持たずに鑑賞すると、どうしても物語の咀嚼が追いつかず、消化不良に陥りやすい。
特に後半の展開は、キャラクターの感情や立場の変化が急に見えてしまい、ドラマとしての説得力に疑問が残る。

さらに言うと…。
本作は二部作構成であるため、物語の焦点がエルファバとグリンダの関係に強く絞られている。
その結果、フィエロの描写はどうしても浅くなり、彼の内面的変化には唐突さがつきまとう。
本来であれば重要な役割を担うキャラクターであるにもかかわらず、その変容が十分に積み上げられていないのだ。

そしてこの作品が、私の中で「素晴らしい作品」とはどうしても思えない極めつけの部分がラストにある。
フィエロが“かかし”へと変貌する展開は、『オズの魔法使い』との接続としては理解できるものの、そのビジュアル表現があまりにも不気味で、生理的な嫌悪感すら覚えるレベルなのだ。
ファンタジー作品でありながら、あの造形はもはやトラウマ級だ。

ストーリーや展開自体に深い理解が及ばなくても、映像的な救いがあればよかったのだが…。
私はラストにあれを見せられて、「鳥肌」が立ったまま劇場をあとにした。