映画『アバター ファイヤー・アンド・アッシュ』
まずはシリーズ三作の簡単な概要を書いておこう。
『アバター』は、地球人ジェイク・サリーが惑星パンドラでナヴィの肉体=アバターを得て、搾取する側だった人類と、自然と共生するナヴィの間で葛藤しながら生き方を選び取る物語である。
続く『アバター ウェイ・オブ・ウォーター』では舞台を海へ移し、森の民だったジェイク一家が海の民と出会い、より多層的な自然観と家族の物語が描かれた。
そして本作『アバター ファイヤー・アンド・アッシュ』は、火と灰という象徴的なモチーフのもと、破壊と再生、怒りと赦しがより前面に押し出された第三作である。
<ストーリー>
パンドラの先住民ナヴィの生き方に共感し、自らもナヴィとなって彼らとともに生きる道を選んだジェイク・サリー。
人類の侵略によって神聖な森を追われたジェイクと家族、仲間たちは、海の部族メトカイナ族と共闘し、多くの犠牲を払いながらも人類を退けることに成功した。
しかし、そんなジェイクたちが、今度は灰の部族アッシュ族と対峙することになる。アッシュ族は過去に、パンドラの調和を司る神のような存在である「エイワ」に何らかの裏切りを受け、絶望していた。
静かに、しかし激しく怒りを燃やすアッシュ族のリーダー、ヴァランに、ジェイクの因縁の敵であり、自らもナヴィとなったクオリッチ大佐が近づく。
両者が手を組むことで、ジェイクたちサリー一家を追い詰めていく。
最初、私は鑑賞するのを逡巡していた。
なぜなら、一作目で嵌らず、二作目(『ウェイ・オブ・ウォーター』)を観ていないから。
しかし、登場人物等わからない箇所もあったが、それでも「SFアクション」なので、難しいことは考えなくても楽しめる内容ではあった。
とはいえ、この作品のテーマについては考えてみなければなるまい。
本作で一貫して描かれるのは、ジェイクという一人の父親が「家族のために戦う」という極めて個人的な動機と、惑星規模の環境破壊という巨大な問題とが、否応なく結びついていく構図である。
彼は英雄でも革命家でもなく、あくまで家族を守ろうとする存在だ。
しかしその戦いは結果として、地球温暖化や気候変動、森林破壊といった最悪の影響を防ごうとする闘争と重なっていく。
象徴的なのが、トゥルクンと呼ばれる鯨のような生き物に対する「追い込み漁」の場面である。
巨大な知性と記憶を持つ存在を、効率と利益のために追い詰め、命を奪う行為は、観ていて明らかに胸がざわつく。
その描写は、単なる異星の残虐行為ではなく、現実世界で行われてきた捕鯨や乱獲、自然破壊を想起させる。
少なからず、その目線は日本にも向けられていると感じた。
露骨な糾弾ではないが、「文化」や「伝統」という言葉で覆い隠されてきた行為を、外部からの視点で見直す契機を突きつけてくるのである。
ラストに向けて本作が示すのは、「善と悪」という単純な二律背反では語れない現代社会の難しさだ。
人類側にも生きるための論理があり、ナヴィ側にも怒りや復讐心がある。
どちらか一方が絶対的に正しいとは言い切れない状況の中で、それでもジェイクは「家族を守る」という最小単位の倫理を手放さない。
中盤で語られた環境や生命へのテーマは、最終的に個々人の選択の問題へと回収される。
大きな正義を掲げるよりも、目の前の命とどう向き合うか。
その積み重ねこそが、灰の中から未来を選び取る唯一の方法なのだと、本作は静かに、しかし力強く語りかけてくる。
