映画『平場の月』
『平場の月』の「平場」とはどういうニュアンスであろうか。
私は正直、「お笑い」でネタ以外のトークをする場面のことを、その言葉で表現しているのを聞いたことがあるが、あまり日常で使ったことはない。
この映画で使っている「平場」とは、おそらく「日常」や「平穏」というニュアンスがあるのだと思うが、私はこの言葉たちの前に「大人の」というニュアンスもあるのではないかと感じ、そして、この言葉が好きになった。
<ストーリー>
妻と別れ、地元に戻った青砥健将は、印刷会社に再就職し平穏な毎日を送っていた。
そんな青砥が中学生時代に思いを寄せていた須藤葉子は、夫と死別し、現在はパートで生計を立てている。
ともに独り身となり、さまざまな人生経験を積んできた2人は意気投合し、中学生以来の空白の時間を静かに埋めていく。
再び自然にひかれ合うようになった2人は、やがて互いの未来についても話すようになるのだが……。
ところで皆さんは、『コキーユ』という映画を御存じだろうか?
小林薫主演の日本映画で、ジャンルとしては恋愛ドラマに分類されるのだろうが、その実、きわめて静かで、淡々としていて、派手な盛り上がりを排した大人の作品だ。
中年の男女が、人生の疲れや孤独を抱えながら、それでも誰かに寄り添いたいという思いをかすかに滲ませていく。
その「かすかさ」こそが映画の魅力で、観終わったとき、胸の奥で小さな波紋が広がっているような余韻を残す。
『平場の月』を観ながら、私はずっとこの『コキーユ』を思い出していた。
ともに日本映画であり、恋愛と呼ぶにはあまりに慎ましく、かといって家族劇でもない、微妙な領域を描こうとする点で非常によく似ている。
劇的な事件はない。大声で泣き叫ぶこともない。
むしろ、日々の生活の隙間に流れ込んでくる、名付けようのない感情を静かに写し取る。
人物たちの一挙手一投足を丁寧に追いかけ、ふとした沈黙や視線の揺れにこそ意味を宿らせようとする。
こういう作品は、撮り手の覚悟と俳優たちの力量がなければ成立しない。
私はこの『コキーユ』という、普通の大人の日常(まさに「平場」)で起きる切ない恋愛を描いた作品が大好きで、ゆえにこの『平場の月』という作品も大好きだ。
観客にわかりやすいドラマを提示するのではなく、あえて余白を残し、言葉にしない感情の領域を信じようとする。
その結果、観客は物語の展開よりも、登場人物たちの心の揺れに寄り添うことになる。
『コキーユ』の小林薫が見せた、人生の重みを背中から滲ませるような芝居は見事だったが、『平場の月』の俳優陣も同様に、過度な説明を排した演技で物語を支えている。
台詞ではなく、呼吸や姿勢や、言いかけて飲み込む一言の中に感情が宿る。
こうした演技は派手ではないが、観客の心に静かに降り積もっていく。
そして映画の最後、登場人物たちが選ぶ道には、人生の複雑さと不完全さがそのまま刻まれている。
幸福の形は一つではなく、ましてドラマチックである必要もない。
そんな当たり前の事実を、映画は穏やかに思い出させてくれる。
『平場の月』は、大人の恋愛を真正面から扱う稀有な作品であり、その佇まいは『コキーユ』とよく響き合っている。
どちらの作品も、劇的な事件を求めるよりも、大人が誰かと関わるときに生じる「曖昧な気持ち」を丁寧に描き出そうとする。
その姿勢が私はたまらなく好きだし、だからこそ二つの映画を並べて語りたくなるのだ。
私はこのブログを書く際に、『平場の月』の興行成績については調べていない。
それは、たとえ成績が悪くても、こういう大人をターゲットにした映画は絶対に必要だし、もっと増えてほしいから。
とはいえ、「大ヒット」というわけにはいかないのかなあ…。若い人は観なさそうだしなあ…。
