映画『時には懺悔を』
映画『時には懺悔を』を観て、最も強く感じたのは、この作品は「何が起きたのか」を解き明かすミステリーである以前に、「われわれは何を見せられ、何を見てしまうのか」を問う映画なのではないか、ということだった。
そもそも原作小説には、極めて個人的な背景がある。
著者の打海文三自身、重い障がいを抱えた次男を育てた経験を持つ。次男は先天性の「二分脊椎症」と「水頭症」を抱えて生まれており、当時の担当編集者からの提案をきっかけに、その介護経験や親としての葛藤をミステリーの枠組みに落とし込んで『時には懺悔を』を書いたという。
この事実を知った上で映画を観ると、本作のミステリーとしての構造そのものが、別の意味を帯びてくる。
小説というメディアでは、読者は文章を介して物語に接する。
読む速度を自分で決め、描写を頭の中で映像化し、場合によってはページを閉じることもできる。
つまり、読者には「読む」という行為を能動的に選択する余地がある。
ところが映画では、その関係が根本的に異なる。
とりわけ予備知識なく劇場に入った観客は、スクリーンに映し出されたものを受動的に受け取るしかない。
映画における映像は、想像力によって補完される文章とは違い、具体的な身体を直接提示する。
そこに障がいを抱えた子どもの姿が映れば、観客はその身体を「想像する」のではなく、「見る」ことになる。
これは映画という表現媒体が持つ、ある種の暴力性でもある。
もちろん、ここでいう「暴力」とは否定的な意味だけではない。
むしろ映画が現実を具体的なものとして観客の前に突きつける力のことである。
小説ならば距離を置いて読めたものが、映画では距離を置くことが難しくなる。
観客はスクリーンの前から逃げられない。
そして、そこに映された現実について、否応なく自分自身の感情や価値観を問われることになる。
『時には懺悔を』が厄介なのは、まさにその点だ。
物語の表層だけを見れば、アウトローな探偵・佐竹が殺人事件の謎を追い、過去の事件との関連を探っていくミステリーである。
しかし、事件の核心に近づくにつれて、その謎解きは単なる「犯人探し」ではなくなっていく。
そこで浮上してくるのが、「障がいを抱えた子どもを持つ親とは、どういう存在なのか」という問いである。
これは非常に危険な問いでもある。
なぜなら、健常者である観客が、外側から簡単に答えを出せる問題ではないからだ。
「親なのだから当然こうするべきだ」という正論は、現実の前では簡単に崩れる。
愛情があればすべてを受け入れられるのか。親だから無条件に子どもの人生を背負えるのか。子どもの幸福とは何なのか。
そして、そもそも他人がその家族の選択を裁く資格があるのか。
本作は、そうした問いに安易な答えを用意しない。
むしろミステリーというジャンルの力を利用して、観客を少しずつその問題の中心へと引きずり込んでいく。
最初は「事件の真相を知りたい」という欲求で映画を観ていたはずなのに、いつの間にか「自分ならどうするのか」という問いから逃げられなくなる。
ここに本作の批評性がある。
ミステリーとは本来、隠された事実を明らかにするジャンルだ。
しかし『時には懺悔を』においては、真相が明らかになるほど、世界が単純ではなくなっていく。
謎が解けることと、問題が解決することが一致しないのである。
むしろ真相を知った観客は、事件そのものよりも、その事件を生み出した人間の感情や社会の構造について考えさせられる。
だから、この映画には「観る覚悟」がいる。
障がいを持つ子どもを描いた映画だから重い、という単純な話ではない。
自分がこれまで無意識に持っていた「普通」や「幸福」や「親子」という概念そのものを揺さぶられるから辛いのである。
そして、ここで冒頭の「読むこと」と「観ること」の違いが効いてくる。
小説では、読者自身の想像力を介して受け止めることができたものを、映画は映像として目の前に提示する。
その結果、観客は単なる傍観者ではいられなくなる。
「見る」という行為そのものに、自分の倫理観が反映されてしまうからだ。
正直に言えば、かなり辛い映画だった。
しかし、その辛さから逃げずに最後まで観客に突きつけたことこそ、本作の強さだと思う。
『時には懺悔を』は、ミステリーの形を借りながら、実は「命とは何か」「親になるとは何か」「他者の人生をわれわれはどこまで理解できるのか」という、極めて重い問題を観客に手渡す映画である。
気軽に「面白い映画だった」と言って終わることはできない。
だが、だからこそ素晴らしい。
観る者を楽しませるだけではなく、観る者自身の価値観を揺さぶり、劇場を出たあとまで考えさせる。
映画というメディアだからこそ可能になった、その「見ることの強制力」まで含めて、本作は非常に野心的な映画だと思う。
