映画『急に具合が悪くなる』

そうか…。3時間16分か…。

<ストーリー>
パリ郊外の介護施設「自由の庭」で施設長を務めるマリー=ルー・フォンテーヌは、入居者を人間らしくケアすることを理想としながらも、人手不足やスタッフの無理解に悩まされていた。
そんな中、日本人の舞台演出家・森崎真理と出会ったマリー=ルーは、がん闘病中の彼女が描く演劇に勇気をもらう。
同じ名前の響きを持つ偶然に導かれて交流を始める真理とマリー=ルーだったが、あるとき真理は急に具合が悪くなる。
真理の病の進行とともに2人の関係は深まり、互いの魂を通わせ合うようになっていく。

本作は、がんの転移を経験した哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂の往復書簡を原作に、濱口竜介監督が映画化した人間ドラマである。
タイトルだけを見ると、病気や死を扱った重苦しい作品という印象を受ける。
しかし実際には、「人は他者とどう生き、どう支え合うのか」という極めて普遍的なテーマを描いた作品である。

病気という出来事は、誰の人生にも突然訪れる可能性がある。
昨日まで健康だった人が、ある日を境に患者となる。その瞬間、それまで当たり前だった身体や生活、さらには人間関係までが大きく変化してしまう。
本作は、その「急に具合が悪くなる」という避けられない現実を通して、人間の存在そのものを問い直している。

興味深いのは、この作品が病気そのものよりも、「病気になった人と周囲の人間がどのような関係を築くのか」に重きを置いている点だ。
宮野真生子と磯野真穂による対話は、単なる患者と研究者の会話ではなく、一人の人間同士が互いに考えを交換しながら、生きることを探究していく営みになっている。
そこには答えのない問いばかりが並ぶ。
しかし、その問いを共有すること自体に価値があるのだと、この映画は静かに語っている。

本作のモチーフになっているのが、マリー=ルーが推し進めている「ユマニチュード」である。
ユマニチュードとは、認知症や高齢者介護の現場で生まれたケアの技法であり、「見る」「話す」「触れる」「立つ」という四つの柱を通じて、相手の尊厳を守ることを目的としている。

重要なのは、ユマニチュードが単なる介護テクニックではないという点だ。
そこには、「人は最後まで一人の人間として尊重されるべき存在である」という哲学がある。
介護する側とされる側という上下関係ではなく、人と人との関係を築くことを最優先に考える。
そのため、相手の身体だけではなく、その人の感情や意思にも寄り添おうとする。

現代医療は高度に発達した一方で、患者をデータや症例として扱ってしまう危険性も抱えている。
しかしユマニチュードは、その流れに対する一つの答えを提示している。「病気を診る」のではなく、「人を診る」。その考え方は、これから超高齢社会を迎える日本にとっても、ますます重要になっていくだろう。

本作もまた、そのユマニチュードの精神と非常に近い場所に立っている作品だった。
病気を克服する物語でも、奇跡を描く感動作でもない。
むしろ、人は弱くなったときこそ他者との関係性によって支えられ、その関係の中で生き続けることができるのだと描いている。

宮野と磯野の対話も、周囲の人々との関わりも、「相手を理解しようとする姿勢」が一貫して流れている。
完全に理解することはできない。それでも話しかけ、耳を傾け、相手を見つめ続ける。
その営みこそが、人間らしさなのである。
そして、その積み重ねがユマニチュードの本質でもあり、本作が最も伝えたかったテーマでもあったように思う。

病気になれば、人は弱さをさらけ出さざるを得ない。
しかし、その弱さは決して恥ではなく、人と人をつなぐ契機にもなり得る。
本作は、そのことを決して声高に主張するのではなく、静かな対話の積み重ねによって観客に実感させる。
だからこそ、鑑賞後には派手な感動ではなく、自分自身の生き方や他者との接し方を見つめ直す余韻が残る作品だった。

とはいえ、エンターテインメントジャンルのものではない作品で、3時間16分は長すぎた。
確かにカンヌ向きではあるが、「商業映画として大ヒットを望むための編集はしようとしていないのだろうな」という感想を強く持ってしまった。