映画『夜勤事件』
ユースカルチャー、若者文化。言葉は何でもいいのだが、ある程度の年齢がいくと、どうしても理解できない世界観がある。
映画『夜勤事件』を観て、まさにそれを痛感した。
作品としての完成度や恐怖演出の巧みさを語ることもできるが、それ以上に気になったのは、この映画がなぜここまで支持され、劇場に人を呼び込んでいるのか、その背景である。
<ストーリー>
寂れた住宅街にたたずむ1軒のコンビニ。古びたアパートでひとり暮らしをする大学生の田鶴結貴乃は、高時給にひかれ夜勤のアルバイトを始める。
日付が変わる頃、彼女は眠りについた街を抜けて橋を渡り、蛍光灯の光だけが頼りの職場に向かう。
店長の指示のもと、品出しや廃棄処理、奇妙な客の対応に追われながら、静かな夜は過ぎていく。
しかしある夜を境に、説明のつかない違和感が店内に現れはじめ、深夜のコンビニは静かに、しかし確実に“何か”に侵食されていく。
そもそも本作は、いわゆる大作映画のような潤沢な予算やスターキャストに支えられたものではない。
むしろ発端は、インディーゲーム的な文脈にある。
その恐怖の構造も、従来の映画的文法というよりは「体験型」のそれに近い。
プレイヤー=観客が、狭い空間の中でじわじわと異変に気づき、不安を増幅させていく。
この感覚は、どちらかといえば映画館よりも、個人のPC画面や配信を通じて味わわれるべきものだろう。
ここで決定的な役割を果たしているのが、ゲーム実況という文化だ。
実況者がプレイし、驚き、叫び、時に笑いに変える。
そのリアクションを視聴者が共有することで、「怖い」という感情が単なる恐怖体験ではなく、コミュニケーションへと変換される。
つまり恐怖は、一人で味わうものから、みんなで楽しむコンテンツへと変質しているのだ。
本作がヒットした理由は、まさにこの点にある。
映画そのものの出来不出来以上に、「すでに共有されている体験」を追体験する装置として機能しているのである。
だが、ここに大きな壁がある。
私のような、いわゆる“オジサン”世代には、この前提がなかなか腑に落ちない。
映画は映画館で完結するものであり、事前に誰かのリアクションをなぞるものではない、という固定観念があるからだ。
もちろん、時代とともに鑑賞スタイルが変わることは理解しているつもりだが、頭で分かることと、身体感覚として受け入れることはまったく別の話である。
スクリーンに映し出される出来事を観ながら、私はどこか置いていかれている感覚を拭えなかった。
隣の若い観客は、あるシーンで小さく笑い、ある瞬間には身を乗り出す。
その反応の一つひとつが、おそらく実況動画で培われた「お約束」に基づいているのだろう。
しかし、その文脈を共有していない私には、どうしても分からない。
これは作品の問題ではない。
むしろ、文化の受け取り方の違いの問題だ。
かつて自分が若かった頃、年長者が理解できなかった音楽や映画に熱狂していたのと同じことが、今まさに起きているだけなのだろう。
それでも、いざ自分がその“理解できない側”に回ると、どこか寂しさのようなものを感じてしまう。
これが、「オジサンの悲哀」というやつかもしれない。
私は劇場の前方で観ていたのだが、エンドロールが終わって後ろを振り向くと誰一人席を立っていなかった。
正直、「感動した!」とか、そんなことではない、何か理由があるのだろう。
ただ、もはやそれさえ調査(詮索)する気にはなっていない。
それほどカルチャーギャップを痛感した映画、否、体験であった。
