映画『俺ではない炎上』

実は海外に行く機会があり、その時、過去に見逃していた映画を機内上映で一気に観た。
この作品は、その内の一本である。

<ストーリー>
大手ハウスメーカー勤務の山縣泰介は、ある日突然、彼のものと思われるSNSアカウントから女子大生の遺体画像が拡散され、殺人犯としてネット上で名指しされてしまう。
身に覚えのない事態に無実を訴えるも、またたく間に情報は広がり、ネットは炎上状態になる。
泰介の個人情報は晒され、日本中から追いかけかけ回されることになってしまう。
彼を追う謎の大学生・サクラや、大学生インフルエンサー・初羽馬、取引先企業の若手社員・青江、泰介の妻・芙由子ら、さまざまな人物の思惑が絡み合い、事態はさらに混迷していく。
泰介は必死の逃亡劇を繰り広げながら、無実を証明し、自分を陥れた真犯人を見つけようと奔走する。

ロードショー期間中「なぜ観なかったのか?」。
CM、予告編を見て、正直、この映画をコメディだと思っていたし、なんとなく軽い作品な気がしていた。
しかし、豈図らんや、意外なほど社会派作品であり、考えさせることも多い作品であった。

物語は、ごく普通の一人の男が、SNS上の“炎上”によって、突如として社会的に追い詰められていく姿を描く。
彼自身は身に覚えがない。にもかかわらず、断片的な情報、文脈を欠いた切り取り、そして憶測が憶測を呼び、いつしか「加害者像」が完成してしまう。
この過程が実に生々しい。
現代社会において、人は事実によって裁かれるのではなく、「そうであるらしい」という空気によって断罪されるのだ。

特に印象的なのは、SNSが生む「無垢な悪意」である。
この作品には、明確な悪人はほとんど登場しない。
むしろ、多くは正義感や好奇心、あるいは暇つぶしの延長で書き込んでいるにすぎない。
しかし、その一つ一つは軽くても、それが積み重なったとき、巨大な暴力へと変貌する。
本人たちは、誰かの人生を壊しているという実感すらない。
ただ「気になるから」「怪しいから」「みんなが言っているから」という理由で石を投げる。
この無自覚さこそが、最も恐ろしいのだ。

さらに現代的なのは、「沈黙」すらも罪として扱われる点である。
釈明すれば言い訳だと叩かれ、沈黙すれば認めたと解釈される。
つまり、一度火がつけば、逃げ場はない。
この構造は、もはや個人の問題ではなく、システムそのものの問題であるといえるだろう。

そして観終わったあと、自分自身もまた、そのシステムの一部なのではないかと考えさせられた。
私たちは常に「見る側」であり、「裁く側」に立っている。
しかし、いつ「裁かれる側」になるかはわからない。
その境界は、驚くほど曖昧なのだ。

正直、私もXなどのSNSをやっている。
主に、映画などの感想について書いてはいるが、なにげなく身の回りに起きた「ちょっとした、(自分個人にとっての)理不尽や不満」について書き込むこともある。
それらが「一人歩き」し始める可能性については、今一度考えなくてはならないと気を引き締めるとともに、「もう止めてもいいんじゃねえかなあ…」とも改めて考える機会になった作品である。