映画『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』
「機動戦士ガンダム」の富野由悠季監督が1989~90年に発表した全3巻の小説[『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』をアニメーション映画化した3部作の第2部。
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』から12年後を舞台に、腐敗した地球連邦政府に反旗を翻す青年ハサウェイ・ノアの戦いを描いている。
<ストーリー>
「シャアの反乱」と呼ばれた第2次ネオ・ジオン抗争から12年後の宇宙世紀105年(U.C.0105)。圧政を強いる地球連邦政府に対し、政府高官の暗殺という方法で抵抗を開始した反地球連邦組織「マフティー」。
そのリーダー、マフティー・ナビーユ・エリンの正体は、一年戦争をアムロ・レイとともに戦ったブライト・ノアの息子、ハサウェイ・ノアだった。
不思議な力を示す少女ギギ・アンダルシアの言葉に翻弄されながらも、マフティーとしての目的遂行のため歩みを進めるハサウェイ。
一方、マフティーを追う連邦軍大佐ケネス・スレッグは、刑事警察機構のハンドリー・ヨクサンから密約を持ちかけられる。
ハサウェイとケネスがそれぞれの目的のために動くなか、ギギもまた自分の役割のため、ホンコンへと旅立つ。
私は、いわゆる「1stガンダム」が好きで、テレビアニメも観たし、劇場三部作はDVD BOXも持っている。
ガンダムについて多少なりとも知識のある人は、色々な形でガンダムのストーリーは展開していることもご存じだと思う。
(ちなみに、1stから連なるこのシリーズは「宇宙世紀シリーズ」と呼ぶらしい)
そして私はと言えば、「1st」~「Ζ」~「ダブルΖ」と徐々に熱意が低減していった口だ。
ゆえに、前作の『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』は観ていなかったのだ。
しかし、数年前に、『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』を観てから、また「プチガンダムブーム」が来ており、今回この作品を観ることにした。
とはいえ、ガンダムの設定は複雑だし、なんせ名前が難しい…。
ゆえに、台詞中に出てくる固有名詞の知識がないと「ぽかん」としてしまうことも多い。
そこで、まず『閃光のハサウェイ』をアマプラで観た。
「クェス・パラヤって、誰だ??」。
仕方ないので、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』も観た。
「なるほど…。よし観るか!」。
「うーん、難しい…」。
とにかくセリフが観念的で、しかも複雑だ。
登場人物たちは、単純な正義や悪を語らない。
地球連邦の腐敗、特権階級の傲慢、テロリズムの是非、人類の未来像――そうした重たいテーマを、抽象度の高い言葉で応酬する。
そのため、何気ない会話一つをとっても、背景にある思想や立場を咀嚼しなければ本質が見えてこない。
主人公ハサウェイは、かつて一年戦争を経験した少年であり、いまや反連邦組織マフティーの指導者となっている。
その彼が語る理想は、決してヒロイックではない。
むしろ苦悩と矛盾に満ちている。
特権を持つ者を排除するという急進的思想と、民間人を巻き込む現実。
その狭間で揺れる内面が、哲学的ともいえる対話によって描かれる。
観客は、派手な戦闘よりも先に、彼らの思想のぶつかり合いに向き合わされるのだ。
しかし一方で、本作は映像的快楽にも満ちている。
1stガンダムでは宇宙空間での戦闘が中心であった。無重力下の機動戦はシリーズの象徴的イメージでもある。
だが本作では、モビルスーツの地上戦が中心となる。
大気圏内での飛翔、夜の市街地を駆け抜ける機体、ビーム兵器が照らす湿った空気。
重力の存在を感じさせる戦闘描写は、圧倒的な臨場感を生む。
特に夜間戦闘の演出は秀逸だ。
暗闇の中で閃光が走り、巨大な機体が建造物をかすめる。
その質量と速度が、画面越しにも伝わってくる。
アニメーション技術の進歩は明らかで、光の反射、煙の粒子、爆発の余韻に至るまで緻密に描かれている。
モビルスーツはもはや記号的ロボットではなく、そこに実在する兵器として立ち現れる。
思想的には難解で、娯楽としては決して親切とは言えない。
だが、その重層的なセリフ劇と、進化した映像表現による地上戦の迫力は、互いに矛盾しない。
むしろ、地に足のついた戦闘描写があるからこそ、彼らの語る理想や絶望が空論に終わらないのだ。
本作は、頭で理解しようとする映画であり、同時に目で圧倒される映画でもある。
難解さと映像美。その両立こそが、『閃光のハサウェイ キルケーの魔女』の最大の魅力だと言える。
