映画『盤上の向日葵』
将棋をモチーフにしているが、別に将棋がわからなくても鑑賞する分には問題ない。
<ストーリー>
山中で身元不明の白骨死体が発見される。
現場には、この世に7組しか現存しない希少な将棋駒が残されていた。
駒の持ち主は、将棋界に彗星のごとく現れ時代の寵児となった天才棋士・上条桂介であることが判明。
さらに捜査を進めていくと、桂介の過去を知る重要人物として、賭け将棋で圧倒的な実力を誇った裏社会の男・東明重慶の存在が浮上する。
やがて、謎に包まれていた桂介の生い立ちが明らかになる。
冒頭書いたように、将棋の知識はさほど必要ない。
しかし…。
私はどうにも、渡辺謙演じる東明という人間の行動がよく理解できなかったので、カタルシスは得られなかった。
作品としては重厚で、構成も緻密、映像も見応えがあり、決して凡庸な映画ではない。
にもかかわらず、物語の核にある人物の動機が腑に落ちず、心が解放される瞬間が訪れなかったのだ。
この映画『盤上の向日葵』は、原作・柚月裕子による同名小説の映画化である。
物語は、山中で発見された白骨遺体と一組の将棋駒を発端に、天才棋士・上条(坂口健太郎)の過去を追っていくミステリーだ。
物語が進むにつれ、彼の師匠である東明(渡辺謙)との関係が浮かび上がり、やがて二人の絆が深い闇の中で崩壊していく。
将棋という静かな戦いの裏に、人間の情念と罪の連鎖を描こうとする意欲作である。
だが、私がどうしても納得できなかったのは、「なぜ、弟子の身代わりとなって殺人を犯す男が、その弟子に自分を殺させるのか?」という一点だ。
東明という人物は、かつての真剣師としての過去を背負いながら、上条を天才棋士に育て上げた mentor であり、父親的存在でもある。
彼が弟子を守るために罪を被るというのは理解できる。
しかし、その後に、あえて自分の命をその弟子の手に委ねる行為は、理屈としても感情としても破綻しているように感じた。
もし、東明が自らの死を通して「贖罪」を果たそうとしたのだとしても、それは上条に再び罪を背負わせる結果になる。
彼の行為は自己犠牲ではなく、むしろ弟子に新たな十字架を背負わせる暴挙だ。
上条にとって、それは師を殺すという取り返しのつかない罪であり、どんな形であれ人生を狂わせる。
東明はそれを理解できるほど聡明な男のはずだ。
にもかかわらず、なぜあの選択を取ったのか?
そこに明確な説得力が感じられなかった。
映画はこの「師弟の愛憎」をドラマチックに描こうとするが、結局その矛盾が物語の中心を揺るがしてしまう。
師の行動が理解できない以上、弟子の苦悩もまた表面的にしか感じられない。
結果として、クライマックスの「命の受け渡し」が本来もつべき崇高さや必然性を欠き、観る側の心を打つには至らなかった。
もっとも、演出面では見事な点も多い。
寒々しい東北の風景を背景に、将棋盤の上で繰り広げられる心理戦が、まるで人間の運命そのものを象徴するように描かれている。
カメラは静かに、しかし確実に人物たちの内面を追い詰めていく。
淡々とした構図の中に潜む緊張感は、邦画としての完成度の高さを示している。
上条を演じた坂口健太郎、東明を演じた渡辺謙。そして、「東北一の真剣師」を演じた柄本明の演技は鬼気迫るものがあり、その意味での見ごたえは充分であった、そのことだけは付け加えておく。
