映画『チェンソーマン レゼ篇』
大ヒットしているとは聞いていたが、なにしろ『チェンソーマン』のコミックもアニメも観ていなかったので、映画を観るべきか迷っていた。
しかし、アマプラに『チェンソーマン』のテレビアニメ版が上がっているではないか!
便利な世の中になったもんだぜ!!
<ストーリー>
「チェンソーの悪魔」との契約により「チェンソーマン」に変身し、公安対魔特異4課所属のデビルハンターとして悪魔たちと戦う少年デンジ。
公安の上司である憧れの女性マキマとのデートに浮かれるなか、急な雨に見舞われ雨宿りをしていると、レゼという少女に出会う。
近所のカフェで働いているというレゼはデンジに優しくほほ笑みかけ、2人は急接近する。
この出会いをきっかけに、デンジの日常は大きく変わりはじめる。
私はアニメに関して言うと、さほど詳しいわけではない。
ゆえに、少々暴論になってしまう部分もあるかもしれないがお許しいただきたい。
『チェンソーマン』は、構図的には『鬼滅の刃』と似ている。
両作とも、人ならざる存在――前者における「悪魔」、後者における「鬼」との闘いを描きながら、同時に「人間とは何か」を問う物語である点が共通している。
『鬼滅の刃』の鬼は、もとは人間だった者が欲望や絶望によって変貌した存在であり、人間の暗部をそのまま外化したような存在だ。
一方、『チェンソーマン』における悪魔もまた、人間の恐怖から生まれた存在であり、社会に根付く不安やトラウマの象徴でもある。
鬼が人間の「情念」を反映しているとすれば、悪魔は人間の「概念」や「時代の空気」を反映しているという違いがあるだけで、根底には同じ構造が流れている。
しかし、『チェンソーマン』は『鬼滅の刃』よりも、その「悪魔」の造形において圧倒的に現代的である。
『鬼滅の刃』が日本的な精神性、すなわち家族や宿命といった古典的なテーマを背景にしているのに対し、『チェンソーマン』の悪魔たちは資本主義社会や情報社会に生きる現代人の恐怖をそのまま具現化している。
銃の悪魔、永遠の悪魔、戦争の悪魔など、いずれも現代社会が抱える「抽象的な恐怖」であり、それは人間の想像力が拡張した結果としての悪魔なのだ。
ここには、単純な勧善懲悪の構図ではなく、人間と悪魔が曖昧に共存する時代のリアリティがある。
主人公デンジもまた、悪魔と人間の狭間に立つ存在として描かれ、ヒーローというよりは、社会の歯車にすぎない若者の象徴のようにも見える。
そうした冷笑的で、ある種の虚無感を抱えた世界観こそ、『チェンソーマン』が「現代的」と呼ばれる所以だろう。
また『レゼ篇』は、物語の中でも特に恋愛要素が強く、デンジというキャラクターの内面が最も人間らしく描かれている章だ。
レゼは美しく、優しく、デンジの世界に一瞬の光を与える存在である。
しかし同時に彼女もまた悪魔(?悪魔でも魔人でもない存在?)であり、その関係は決して成就することがない。
恋愛感情が芽生えながらも、互いの立場がそれを許さない――その切なさが、単なるバトルアニメを超えた感情の深みを与えている。
デンジが初めて「普通の恋」に触れようとし、そしてそれを失う過程は、若さの儚さそのものを映し出しているようでもある。
この恋愛要素が、単に血と暴力の物語に温度を与え、特に若い女性層からの共感を呼んでいるのだろう。
愛と暴力、純情と裏切り――その対比のバランスが、『レゼ篇』を特別なものにしている。
それでも、これだけグロテスクで、スプラッターな作品が若い女性に受けているのは、アニメならではないだろうか?
アニメという形式が持つデフォルメと美化の力が、残酷な現実を受け止めやすくし、同時にそこに潜む感情の真実だけを抽出して見せる。
血しぶきの中にロマンを感じ、断絶の中に優しさを見出す――そんな感性を育むのは、まさにアニメ文化の成熟の証でもある。
『チェンソーマン レゼ篇』は、その極限に立つ物語なのかもしれない。
